幸福のロジック

  最近ずっと「幸福とは何か」について考えている。と言うのも、わたしはなぜ生きるのか、と言う問いに対し「幸福になるため」だと考えているからだ。

  その前にちょっと元も子もない話をすると、最近のわたしはかなり死にたがりである。これは「生き急いでいる」というわけでも厨二キャラというわけでもなく、ただ生きていることが漠然とつらいためこの感覚から「逃げたい」という意味である。生きているだけで毎秒生まれる欲とそれに対する不足感、劣等感や罪悪感、わたしという存在がどう足掻いても無価値であること、生きているだけで誰かの迷惑になってしまうこと、寂しさと恥ずかしさ。これらと向き合うのが死ぬほど面倒くさい。こんなことを一々解消しなければならないくらいなら、存在すること自体やめてしまいたい、と思ってしまう。

   人はなぜ生まれ生きるのだろう。わたしはなぜ生きているのだろう。一つの目的、仮定としては、幸福になるため、のはずである。それなのになぜわたしは幸福を感じていないのか。理由もないつらさを感じているのか。わたしがワガママなだけなのだろうか?

    先日、祖父母宅を訪ねた。大学での愚痴を少し漏らすと、祖母に「そんなにいつも幸せなわけがないだろう。人は幸せに慣れるものだ。多少つらい思いをしてでも努力することを覚えなければ幸せなど感じられない」と言われてしまった。祖母は強い人だ。これまで本当に努力努力の人生で、理不尽なこともたくさん乗り越えてきた。だが、わたしにだって祖母の言いたいことはわかる。幸福とは、日々の努力の雲間にそっと見え隠れするものであり常時満ちているものではない。そんなことは言われなくても知っている。だけどその「努力」、幸福感知センサーの感度を上げる過程で本当に本当につらくなってしまうことがあるのだ。数ヶ月前のわたしがそうだった。こんなことは無益なんじゃないか、報われないんじゃないかという不安に付きまとわれて、「努力」したい気持ちはあれどそれをすることすら出来なかった。このままではヒステリックを起こして他人に迷惑がかかる、と思ったのでわたしは努力することを辞めた。努力するに値しないポテンシャルの低い自分を認め諦め、わたしはダメな人間であると受け入れた。それから少し楽にはなったが、結局自己嫌悪からはなかなか解放されない。

   事実としてわたしはダメな人間であり、「努力」すら「出来ない」し「しない」、その上肯定だけは一丁前に欲しがっている。一体何に対する肯定なのかは自分でもよくわからない。多分、ただここに生きていることを無条件に肯定して欲しい。滅茶苦茶だ。甘ったれている。幾ら何でもワガママが過ぎる。それでもこれが、情けないけど今のわたしの在り方として精一杯なのだ。

   人間は幸福であるために存在しているはずなのに、わたしは待てど暮らせど一向に幸福にならない。どうしてだ。幸福が苦痛の先にしかないのはどうしてだ。しかもそれも確約ではなく、例え見えたとてほんの束の間の……そんなの、「在る」と言えないのではないだろうか。そんなの、幸福と言えるのだろうか。

   わたしは幸福になるために存在しているはずである。そうでないのだとしたら、わたしは本当に「どうして自分が存在しているのかわからない」。わたしは幸福になって然るべき。わたしの幸福とは何か?なんだろう。安心……安心感に憧れる。慢性的に永続的に、安心感に包まれたい。そのためには、やはり努力をしなければならないのだろう。

   身の丈に合った努力をする。どうしてもつらいこと、やりたくないことはしない。気持ちいい方向に、人生が幸福になるように。まずは、不安要素を一つずつ倒していく。その過程で「努力」が必要だとしても、ダメでもともと負けて当然、というスタンスで、一つずつ「安心」を手に入れられたら、いいかもしれない。